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Profile

はじめまして!管理人のHIROKOです。

数あるブログからご覧いただき
ありがとうございます!

わたしは子供のころに両親から虐待を受けて育ち大人になってからは借金地獄に苦しむという栄光ある人生ではないですが、1冊の本になりそうなほど前途多難、紆余曲折ありの半生を過ごしてきました。

このブログでは人生どん底から這い上がる様子や在宅でお仕事をして目標の収入を得てきた
エピソードやマインドを綴っています。

私自身も周囲の方からたくさん助けてもらい、ここまできました。今度は私が恩返しする番…誰かのお役に立てれば嬉しいので日々学び得た情報もリアルに発信していきますね。

まずは自己紹介ってことで長文になりますが、よろしかったら最後までご覧ください(^^)/

PROFILE

東京生まれの埼玉育ち
アラフィフ4人の子のママ。

ポジティブで前向きお仕事が大好きで、のめり込みやすいタイプ。
限られた中から可能性を生み出すのが得意です。

現在はあるきっかけから「SNS」を学び完全在宅フリーランスとして独立

さらに2024年は、将来自分の夢を叶えるため、以前から興味のあった
『WEBマーケティング』について学び始めました。

幼児期~小学生

【幼少期】

父24歳、母21歳の時に私が誕生!
そして3つ下に弟が産まれたと同時に私の運命が変わった始まりでした。

青果店に勤めてた父は早朝4時~20時過ぎに帰宅、休みは日曜のみ、母は週6ワンオペ、人見知りで頼りになる人もいない状態でした。

父は日曜になると競馬・パチンコとギャンブルが盛んになり、そして賭け事に負けるたびに不機嫌で母や私に八つ当たり、感情を暴力で表現していました。

自由奔放な父に対し、母の苛立ちは私にぶつけるように…育児の大変さや金銭面で手一杯な両親から虐待を受けて育ちました。

母は私の3つ下の弟をとにかく溺愛していました。弟がなにか失敗やいたずらをすると、すべて私に当たり散らし、暴力が続くのです。

毎日が地獄…

家に入れてもらえない、食事を与えない、殴る、ける、投げ飛ばされる、紐で縛られ倉庫に監禁されたり下着同然の格好で追い出されたり、真冬には水を浴びせられ閉め出しされ、
あくる日は熱湯に近い風呂に入らされたり時にはナイフやたばこをを突きつけられる、
ビール瓶で殴られたこともありました。

この頃を思い出すと胸がギューッと締め付けられ苦しくなります。家にいるのが怖くて家出ばかりしてました。警察に保護されることも頻繁で、親が暴力を振るうので
「助けてほしい」と涙ながらに訴えても「自分がわるいことしたからでしょ」と

昭和初期の大人たちに映った私は「悪い子」としか認めてもらえませんでした。

なぜ幼い私が殴られても耐えられたのか…その理由は「あしたのジョー」を観てたから。


内容は当時も今も全く入ってこないのですが、殴られても殴られても、立ち上がる姿だけ鮮明に覚えていて…その頃から父に殴られても蹴られても「立ち上がってやる!!」と心に決め「ド根性魂」が身に付きました。

小学生のころ

助けてもらいえない悔しさから、全てにおいてに悲観的になってました。学校では家での鬱憤を晴らすかのように、いじめっ子まっしぐら。母と一緒に何件も謝罪に行くのを繰り返してました。

そのため、さらに親の暴力は頻繁になり、足や素手で殴られても、それほどあざはできなかったのですが、「布団叩き」で叩かれることが多かったので、あの謎の輪が交差している模様がミミズ腫れになり太ももなどにくっきり残って…

大好きな体育では、ほぼズボンを脱ぐことが出来なかったです。その頃の私は、1年中真っ黒なPUMAのジャージをきていたので「黒豹」と男子にあだ名を付けられ「問題児」として一目置かれる存在でした。

転機のきっかけ

そんな中、自暴自棄の私に4年の担任の先生だけは「お前はやればできるんだよ」と、なんども声をかけてくれました。最初は「うっとおしい」とか「暑苦しい」と思ってましたが(笑)


ある日、先生に家のことを真剣に伝えると「お前がなにか1番になれることがあれば、なにかが変わりそうじゃないか?」と言われたのです。それからなにをしたら良いのか?分からなかったので、まずは放課後に先生に付き合ってもらって算数をとにかく集中的に学習。

「なんでも1番になってやる!」と決め、勉強の甲斐あってテストではほぼ毎回100点、マラソン大会では「ド根性魂」で最下位グループから学年でトップ3入りを果たしたのです。

その結果に対し先生は「よく頑張ったじゃないかーーー!やったじゃんかーーー!」と
私の髪の毛がクシャクシャになるまで撫でて褒めまくり…いつの間にかそれが嬉しくて「悲観的な人間」から「負けず嫌い」に…


親から暴力を受けて育っていたため、先生が私の頭を触ることに抵抗があって…
その後しばらくしてから、これが「スキンシップ」なのか~とわかりました。

中学に入る前に…と同じ市内に両親は家を購入、引越をしました。自分の部屋ができたことで多少気持ちは楽に…相変わらず虐待はあるものの、引越後父の矛先は母へ。

その理由は母がパート勤めを始めたから。短時間で近所の会社へ勤めていたのですが、家庭に収入が増えとくに家の中が疎かになることは無かったのですが父は母がやりがいを持って楽しそうに働いているのが気に入らなかったようで夫婦仲が悪くなり喧嘩が絶えない日が続きました。

ある日お皿が飛び交い、窓ガラスが割れ、母は額を切る大けがをしました。
その時、私は初めて大量の流血をみて「このままでは母は死んでしまうかも!」と
慌てて119番へ電話しました。

が…こわくて嗚咽して、話すことができない…

それを見た父はすぐに「おまえーなにやってんだー!」と電話を切ったのです…
本当に一瞬の出来事。どうしようもない状況の中で

「かみさま一生のお願い!助けて!」


心の中で何度も叫んでました。なぜ私を虐待する母を助けたいと思ったのかはわかりません。とにかく「助けないと」…と床が血で染まっていく瞬間をみて必死でした。先方で異変を感じたのか逆探知で電話が掛かってきたのですが…


父は電話が鳴っては切り、鳴っては切りを繰り返し、とうとう警察が来るまでの大騒ぎになり、母は15針縫うケガを負いました。

突然母が失踪

母は度重なる喧嘩が原因で憔悴しきってしまい、引越1年後に失踪しました。家事は分担制になり父は食事だけは作ってくれましたが、その他の家事は私が担うことに…

家事など母から教えてもらったことは一切なかったので、どこに何があるのかもわからず、なにをどうすればよいのかもさっぱり。

ただ唯一鮮明に記憶しているのが「母のいなくなってからは自由だ~!」と喜んでいたこと。小学校で体験した「やればできる」から「責任感を持つように」なった私は父が帰宅するまでにしっかり家を守っていました。

中学時代

実は私の通う中学はTVや報道でも取り上げられた「日本で1番悪い中学校」廊下ではバイクが走りまくり、教室のガラスは張り替えを繰り返しても割られトイレのドアは1枚もなく、金八先生にあった光景だったそう(もしかしてモデル校?)

その状態から立て直すために学校改革が行われた頃に私たちが入学…とにかく拘束が厳しく決まりを守らないと親が子と一緒に登校、子供の机の横に椅子を置いて一緒に授業を受け、給食も食べ、一緒に帰宅。それを1週間続けます。そのため学校内ではみーんな良い子!


我が家では父が帰宅する20時頃まで、学校帰りの友だちが毎日数十人がいるようなたまり場状態…寂しい想いはまったくなく、日々パーティをしてるような楽しい時間を過ごしました。

小学生後半で成績優秀だった私は中学1年の夏までは305人中4位の成績をおさめていたのですが、母が出て行った開放感と学校での窮屈な生活をはらすため、勉強はまったくしない破天荒な生活へ。

中3ではテストや偏差値は点数をつけられないほどのおバカ…当時、私の中ではド派手で個性的な美容師の叔母に影響をうけて、美容専門学校へ行こうと決めていました。…が、

中3で再び「暑苦しい」と感じるほど熱心な先生に出会い
「うちのクラスの子ら、全員高校へ行かせてたいんや!」
どうやら高校へ行かないのは私だけだったようで

入試3ヵ月前に説得され、しかたなく高校進学を決意。ちょうどその頃に私の受験が心配と母が自宅へ戻ってきました。そこからなんとなく塾にも通って単願推薦で高校へ入学。
今となっては先生の一言で進路が変わったことに感謝!

成人になってからも飲みに行くほどの仲良しでしたが最近は介護が必要な状態になってしまったため、週に数回買い物や病院へ連れて行ったりとお手伝いをしています。

高校時代

高校に入学してからも母と折り合いはつかないため、家には寄り付かず連日遊びまわり、色んな友だちの家に泊りあるく生活。ある日友達から「スゴイ稼げるバイトあるよ!」と言われ仕事を斡旋してくれる「Mさん」という女性に出会いました。

仕事はパーティーコンパニオンやイベントコンパニオン。当時2時間で5000円、おまけにチップももらえたりと高校生の分際でかなりの高収入!

Mさんは私の家事情を聞き「ツラいならいくらでもうちにいて良いよ」と快く受け入れてくれて、生活費もバイト代から支払い高校生活の半分以上はMさんちから通学していました。

高校では校則なし、制服なしの自由な学校…バイトで早退しても出席日数と単位だけあれば進級できたのでまさに自分のやりたいことが自由にできました。

高校3年になり、車の免許を取るため親から帰宅を強いられた私はMさん宅を去ることに。Mさんが作るプリンが大好きで…お別れの日に2人で泣きながらプリンを作ったことは今でも忘れられない思い出です。

社会人になって


就職先は友達と一緒に決めた新宿にある大手エステサロン。毎朝、吐き気がするほどの超満員電車で通勤していました。研修を終えると六本木の新店舗へ移動。

当時先駆けだった「メンズ脱毛エステ」専門の店舗へ。これがモニターのお客さまもスタッフの私たちも不慣れだったこともあり施術中に男性の本能が露わになる光景を見て、またもや吐き気が…赴任して3日で退職しました。

そこからガソリンスタンド、ケーキ屋、パン屋、引越し屋建設業、不動産事務、訪問販売、マルチ商法とバイトをいくつも掛け持ちして、やっとお金が貯まったところで近くに家を借りました。

そこから仕出し弁当のルート配達なる高収入な仕事を見つけました。いつも仕事が早く終わってしまうため、空いた時間を使い献立表1枚持って企業へ飛び込み営業。新規開拓に貢献できたことでエリア1の売り上げを達成!

それでもまだ時間を持て余していたため、小学校5年生以来使ったことがなかった包丁を持って仕込み作業のお手伝い。料理のことはさっぱり分からなかったのですが、これが楽しくて早朝3時起きで調理経験を積むことができました。

年に2回の社員旅行でも連続表彰してもらい、その後は社長と新規開拓の営業へ回ったり、新しく立ち上げる現場統括、スタッフの雇用から業務が軌道に乗るまでの管理者として次々と現場を任されました。

その反面、管理者という重責から精神状態を保つため、夜は居酒屋でバイト。1日3~4時間の睡眠でしたが、初心に戻れる感覚が新鮮で心のバランスがとれ、毎日充実してました。

身体の異変

肉体的にも精神的にも多忙だったせいか、どんどんやせ細っていく身体。周囲からは食事面を気を付けるよう注意され、1日に5食食べる生活…それでもどんどん痩せていく。

その当時、老人ホームの食堂を任されていた私は、看護師さんに「体調が悪そう」と指摘を受け、血圧を測ってもらうことに。すると脈拍が120拍!一般の人がマラソンしたあとの脈拍らしくそのまま大きな病院へ行くことになりました。…検査結果は

甲状腺機能亢進症

そのころにはもう階段を登ることもツラく四六時中身体がだるい、食べても痩せていく症状が出ていました。医師は「運動、仕事、海藻類は禁止」とのこと。

仕事はしばらく時短勤務、本社にて営業資料つくりに切り替えましたが、体力に限界を感じ、会社もバイトも辞めることになりました。

薬の効果があらわれた半年後には仕事を再開。以前勤めてた会社では責務が大きいため
近所の歯科医院で働くことに。よく通っている患者さんと地元の話題になり、全く面識がなかった同じ小学校出身だという男性を紹介され、その3年後に結婚しました。

 

甲状腺の病が原因だったのか?不育症で2人の子を流産しましたが
子供を産むたびに病気は改善しもう15年以上、薬を頼らない生活が
できるようになりました。4人の子を授かったのは奇跡だったと思います。


結婚10年目にして仕事の軌道が乗ったことをきっかけに夫は独立。ちょうどその頃に3人目を出産したのですが、3番目の子だけ食物アレルギーがひどく、食事作りに大変苦労しました。

そのころ、ホームベーカリーの販売が急上昇で我が家も購入。であればアレルギーっ子でも食べられるパンを作ろうとそこからパン作りの研究にドハマり、毎晩深夜までたくさん焼きまくってました。ハマりやすいタイプです(笑)

さらに手作りパンの楽しさ、おいしさ、アレルギーっ子でも食べられる安全なパン作りを広めたくパン講師の資格を取り、自宅でパン教室を始めました。始めはママ友や、そのまた知人にお試し体験をしてもらっていたのですが、

その頃は今のようにアレルギー表記もなく、アレルギーに対し、あまり世間では注目されてなかったため教室は口コミで広がり、どんどん予約が入るので1日2クール開催した日もあり大盛況でした。

ところが、ある日世界的な未曽有の病

コロナが大流行

パン教室はキャンセルの連発で予約はなくなり、収入ゼロ。主人は建設業ですが、感染防止対策として現場の出入りを禁じられました。お互い自営業だったため、生活費として半年分ほどは確保してましたが、

学校も休校になり食費が倍以上かかるため、生活費は底をつき進学のための貯金を切り崩すことに…また仕事を失った主人はその頃から毎日キャバクラ通いで朝帰り。自分の持っているカードを限度額まで使いきり、総額600万ほどの借金を作ったのです。

これでは生活ができない…と私はオンラインでパン教室をやろう!と考えたのですが、ただ単に写真とレシピを投稿したり、動画を作っても受講してくれる方がいない…そもそもSNS運用、マーケティングの知識がまったくなかったので集客ができず。

そのうち、おうち時間を楽しもうとホームクッキングが流行り出して、材料の小麦粉やバター、イースト菌までが手に入らない事態に…もう手の打ちようがなくなってしまい諦めることにしました。

SNSの可能性

こんな状況でもオンラインレッスンをして集客できている人はなぜなのか?なにか方法があるのか?と疑問におもうようになり「インスタ集客」というワードに関心を持つようになりました。

主人の稼いだお金とは別にプールしてあった自己資金をはたいてスクールに入会。そこではノウハウを教えてくれるのですがそのノウハウをどう活かしてよいのか分からないため、半年であっさり退会。

その後も「メンター」と呼ばれる人の講座を受けるも、「顔出し必須、リールとライブを使えばすぐ売れます!」と言われ年頃の子供が反対していたこともあり、私には無理と断念しました。

SNSに興味が出てきた同時期に女性専用オンラインスクールを発見。ずーっと気になっていたのですが、これ以上のお金を使うことで良い方に転換するのか?長いことためらい続けました。

主人は借金してまで飲み歩いてた反省はなく、仕事もまちまちな状態が続いてるため、ここで「私が子供たちの将来を見届けてやる!」と一大決心しトータル2年程気になっていた女性専用オンラインスクールリモラボへ入会しました。

SNSのノウハウと可能性、ライティングやデザインの作り方、最新のマーケティングについても詳しく学ぶことができ、スクール生同士の交流や、プロの講師に壁打ちすることができる、本当に至れり尽くせり。

困ったことがあれば個別に相談できたり、SNSのプロフィールや投稿まで添削してくれる環境まで備わっていました。なぜ最初気になった時にこのスクールを選ばなかったのか、本当に後悔しました。

また、これまでスクール代として投資してきた総額130万も半年で返せたので本当にこのスクールがなかったら、やる気は愚かずっとドン底、地獄をみて過ごしていたと思います。

現在ではスクール内でのお仕事に携わってる他、インスタ運用で困っている方のサポートをし在宅でお仕事できるようになって大変感謝しています。

家事ができないほど忙しかったりすることもありますがコーチングの知識を教えてもらったおかげで子供達への接し方も変わり、こども自らがお手伝いしてもらえるようになりました。

今、SNSを学びたい、自立したいと思っている方がいましたら、迷わずこのスクールを選んでいただきたいと思います。

私が成功したスクールは
【こちら】から詳しくお伝えしていますので、
チェックしてみてくださいね。